「善い先生、永遠の命を受け継ぐには何をすればよいでしょうか。」マルコ10 17
「行って持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい。」マルコ10 21
「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」マルコ10 27
まだ未信者だったころ、初めてこの聖書の箇所を読んだ時、どうして持っているものを手放さなければならないのか理解できなかった。今の世の中、イエス・キリストについて行く人なんているのかしらと他人事のように思っていた。
その後、イエスと出会い、洗礼を受け、どんな形であれ、イエスに従って御父への道を歩みたいと考えるようになった頃、度々またこの箇所が目に留まるようになった。この金持ちの男とは私のことだと思った。私も持っているものを手放すことはできない。いかに私は多くのものにしがみつき、それらに自分をつなぎとめて生きているかを思い知らされた。イエスに従っていきたいけれど、このように完全に従うことはできないのだと悲しい気持ちになった。でも、その場を立ち去るのではなく、イエスの周りをうろうろしていたように思う。
ある時、「そうだ、神にお任せしよう。私はただ、『イエスに従って御父への道を歩んで行きたいのです』とだけ言おう。そうすればきっと神は憐れんで下さるだろう。」そう思った。それからしばらくこの御言葉は私の目に触れなくなった。その間、イエスからの強いアプローチの声と私の彼に対する思いが一致して、修道生活に招かれていること を意識するようになっていた。そのころにはもうイエス・キリスト以外何もいらない。イエス・キリストこそ私の唯一の宝と思えるようになっていた。まさに「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」との御言葉は真実だと悟った。
あれ以来、確かに私の中で何かに執着することがなくなった。しかし生活する上では相変わらずいろいろなものを持っている。ただそれは自分の為のものとしてではなく、神の為、他者の為のものとして持つようにしている。
イエスの呼びかけは恐らく私たちがこの世に生を受けた時からあるのだと思う。それに気付いた時、イエスから離れることなく、そこに留まりたいものだ。できなくても、分からなくても、悲しくても、イエスのそばにいたいものだ。そんな私たちを神は放っておくはずがない。「永遠の命を受け継ぐ」道は、イエスと共に御父への道を歩むこと。私たちが神に向かって目を上げさえすれば必ず行くべき道に導いて下さるだろう。「神は何でもできるのだから。」